文章トイウモノ。。。

(1)話し手または書き手の思考や感情がほぼ表現し尽くされている
 一まとまりの統一ある言語表現で、一つもしくは複数の文から
 成るもの。一編の小説・評論・詩などの類。講演や複数の話者
 による座談など音声言語を含めることがある。それ自体で表現
 が完結しているものならば、和歌や俳句も文章といえる。


(3)内面の徳が容貌や言語として外にあらわれるもの。
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文章を辞書で調べると、上記の説明が成されている。自分は、こう
してmixi日記やブログ等を書いているのだけど、結局文体に表れる
のは、自分の思考であり感情だ。つまり自らの言霊を、文字にした
ためているのだと考える。だから、日記やブログ記事を読んで、そ
れに対し感応する人達が集まってくるのは、ある意味言霊の繋がり
であるとも思ってしまう。

話は文章に戻るけれど「人に読ませる文章」と云われるものがある。
しかし根本的に人に読ませるのではなく、自分の思考や感情に感応
した人達が、それを読むのだと考える。例えば新聞記事などは、な
るべく個人の感情を抑えて、事実を伝えるものだ。しかし、読んで
みると、やはり記者などの言霊というものを感じる。だから夢中に
なって読んでしまうものもある。

ところが読めないものに、役所などで発行する観光歴史の案内文な
どがある。間違った事は書いてないのだが、無難すぎてつまらない。
それが間違いというわけでは無いが、そこには言霊というものが存
在しないかのようだ。しかしそこには徹底して無感情にするという
役人根性?というものもあるのだろうが、結局読んでも『ふ~ん…。』
というものしか与えられないのが、役所(役人)などで作る文章なの
だろう。やはり人であるならば、個人的な思考や感情が表れるから
こそ文章であると思ってしまう。

梅原猛という人物がいるが、初期の頃の文章は、やけに熱く危なっ
かしいが、人を引き付ける魅力に溢れるものだと思う。だから多く
の読者を集めて、今尚評価されるのは、梅原猛自身の言霊が文章に
表現されたからなのだろうと考える。梅原猛自身の言霊は、その好
奇心にある。様々なものに興味を持ち、人に対する興味もまた尽き
ないのが梅原猛なのだという。役所発行の文章と、梅原猛の文章の
違いは風評や人を意識し過ぎて無難に収める文章と、人に訴える事
を前提とした文章の違いのような気がする。だから、沢山の物事や
沢山の人物に興味や好奇心が尽きた時は、無難なつまらない文章に
なってしまうのかもしれない。だから、様々なものや人々には常に
興味を持ち続けたいものだ。何故かと言えば、まだまだいろいろな
ものを書き続けたいから…。
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by stavgogin | 2009-10-19 08:04 | よもつ文
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