水の精トイウモノ

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ショパンのバラードは、同郷の詩人アダム・ミツキェヴィッチの詩にヒントを得て作れたとも云われているが、その真意は謎のままだ。そのミツキェヴィッチの詩には「シフィテシ」や「シフィティジャンカ」があるが「シフィテシ」は湖の名であり、神秘と怪異に包まれた謎の多い湖だ。要は神話や伝説の世界観がその詩には描かれており、ショパンもまたそれにインスピレーションを受けたのかもしれない。ショパンのバラードの2番と3番の響きは、確かに水の響きであると思う。

シフィテシの湖には、夜になると美しい娘か現れる。森の中を彷徨った後、鬼火のように消えてしまう。この娘と恋仲になった森の狩人は、素性をあかそうとしない娘に永遠の愛を迫り、決して心変わりしないと誓いを立てる。娘と別れた狩人が湖畔を歩いていると、銀色の水の面に白鳥のように輝く湖の精が現れ、尻軽な森の娘なと忘れて自分と一緒になろうと誘惑する。たちまち心を動かされた男が、湖の精の手を握ろうとした瞬間、湖の精が森の娘と同一人物だった事を知る。狩人はその場を逃れようとしたが、時既に遅く、湖は激しく騒ぎ、逆巻く水が奈落の口を広げて狩人を呑み込んでしまった。


このミツキェヴィッチ詩には、日本の古典的なものが散りばめられている。やはり聖域であり神域と云われる水を湛える地などには、日本ならば機織り娘がいたり、もしくは天女や女神が存在する。そして決まって男は魅了されるのだか、やはり人間と神であり精霊との愛というものは、実を結ばないもの。こは日本も同じだが、男は約束を破ってしまうのだ。単純に言ってしまえば、男は浮気性が強く、約束をも守れない存在。または小野小町と深草少将との関係もあるのだが、結局男の意思は脆弱で女の期待には答えられない物語や伝説か多い気がする…。

ショパンのバラードが水に関するものを表現しているのなら、水こそは女性であり、美しくも優しさと激しさとを有する存在てあるのだという強弱を例えている表現なのだろう。演奏はツィマーマンだが、このショパンのバラードは女性ピアニストよりも男性ピアニストで聴きたいものだ。何故なら、男はとこかで水と女性を同一視している歴史かあったかもしれないと感じているからだ。水は流れて清いものであるが、同時に荒れ狂い家や畑を流して害を成す存在だ。家の妻を称して”山の神”と称するのは、女性というものが根常に優しさと激しさを有するものとして考えられ、それは自然界の山や水に当て嵌められている節がある。西洋・東洋、日本をいとわず水の精が女性であるのは視点が男の立場からであるが、男の単純な感情よりも、女の感情というものが不明確で分かり辛いものてあるからこそ、一瞬にして変わる山の天候や水の多面性に女性の感情を投影させてきたのではないだろうか?水を手に入れようと手に買っても、隙間から水はこぼれてしまうもの。水を捕まえてどこかにしまったとしても、水は淀み腐敗し、清らかな存在では無くなってしまう。つまり水=女性というものて考えれば、古代から男を魅了する美しい女性はまさに水の精霊であり、捕まえる事の出来ぬもの。だから日本では天女の羽衣の伝説が広まり、西洋ではオンディーヌという水の精の小説まで創作されたのは、あくまでも男の視点からの女性を水に例えている為ではないだろうか?

奇しくも遠野て一番重きを置いて信仰されているものに早池峰の女神がいる。その名を瀬織津比咩といい、水神でもあり早池峰という山に鎮座する女神であるから山の神でもある。水を制御する技術が開発されながら、どこかでそれは完全に出来ないものと認識されているのは、やはり女性という感情と結び付けられていたのだろう。だからこそ、水の女神や水の精は全て女性となる。だからこそ地元の遠野では、畏怖され慕われる存在として水の女神である瀬織津比咩が祀られたのかもしれない。
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by stavgogin | 2010-05-12 16:11 | よもつ文
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