金炯国名誉教授が、社稷洞の黄鶴亭で弓を引いている。金名誉教授は、ほかの人なら引退する年齢で国弓に入門した。9月29日撮影。/写真=許永翰(ホ・ヨンハン)記者 「弓を引く瞬間は的だけが見える。緊張の中で見詰める的は、ある瞬間、なんとしても到達すべき深い願いの化身になる。過去に対する後悔もなく、未来に対する不安もない時間」 弓を手にして的を狙うまで、5秒から10秒ほどの時間が流れる。そしてついに手が弓の弦から離れ、2秒後には、的に当たる「タン」という音が響く。「私と的が一つになる『物我一体』の瞬間」と語った。 http://u1sokuhou.ldblog.jp/archives/50350574.html 上記の記事を読んで、すぐに思い出したのが弓聖と云われた阿波研造氏だった。この阿波研造に大正13年に来日し、昭和4年まで師事したドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲルの著作「日本の弓術」に似たような文章が書いてある。下記の言葉は、阿波研造氏の禅思想に基づいた無の思想の境地でもある。 「私は的が次第にぼやけて見えるほど目を閉じる。すると的は私の方へ近づいてくるように思われる。そうしてそれは私と一体になる。…的が私と一体になるならば、それは私が仏陀と一体になる事を意味する。そして私が仏陀と一体になれば、矢は有と非有の不動の中心に、したがってまた的の中心に在ることになる。矢は中心から出て中心に入るのである。それ故あなたは的を狙わずに自分自身を狙いなさい。するとあなた自身と仏陀と的を同時に射当てます。」 阿波研造氏は来日したドイツ人のオイゲン氏の前で、暗闇の中で的の中心に矢を当て、次の矢は矢筈に当て、先の矢を真っ二つに引き裂いだそうだ。阿波氏の言葉と、それを実践した神技に驚嘆したオイゲン氏は、先に紹介した「日本の弓術」を著したのが昭和4年以降の話。 阿波氏と朝鮮人の言葉の構成は違うが、これは禅思想の"無の境地"を説いたもので、阿波氏は「仏陀一体」と述べているのに対し、朝鮮人は「物我一体」という言葉を使用している。 先に紹介した朝鮮人も弓をやるならば当然、オイゲン氏の著作に目を通した筈。おそらくそれに対抗して努力したのだろうとは認めるけれど、中身の哲学が、どうやらパクリのよう。。。
by stavgogin
| 2012-04-05 07:21
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