<   2009年 06月 ( 14 )   > この月の画像一覧

「イカリ」トイウモノ。。。

c0111772_9231792.jpg

漫画「宗像教授異考録(第九集)」で、オキナガタラシヒメでもある神功皇后の話に触れ、タラシは碇であり、それは天空に浮かぶカシオペアと繋がると解いていた。ただしこれには、もう一つ足りないものがある…。

ところで、男というものは常に動くものだ。体型的に男の形は独楽みたいな逆三角形。常に動いていないと倒れてしまう体型だ。神話的にみても、男はいつもその場を立ち去ってしまう存在。しかし、その地に居座るものは、そういう行動をする男に怒りを覚えてしまう。それが女というもので、体型的にもお尻がドーンと大きい正三角形で、その地に居座るのに丁度良い体型だ。そして居座った女神は、いつしかその怒りを周囲に発して、荒ぶる女神に変わってしまう。

神功皇后は、香椎宮で住吉の神が憑いて宣託を夫である仲哀天皇に伝えるのだが、仲哀天皇をそれを信じずに、死んでしまう。その後暫くして神功皇后は、子供を産むのだがそれは応神天皇というのは有名な話。しかし、その父親というのは仲哀天皇ではなく、住吉の神の子を宿したという伝説がある。また別に、応神天皇の他に、もう一人の皇子を産んだが死んでしまい、それが仲哀天皇に対する怒りに変わったとの伝説が気比奥宮に伝わるようだ。

この神功皇后、熊襲の反乱鎮圧にかけつけようとしても船が動かなくなり、怒りを爆発している。ある意味、荒ぶる女神とは神功皇后だったのかもしれない。その神功皇后の思い通りに動かなかった仲哀天皇も、もしかして神功皇后の怒りに触れて死んだのかもしれない。

そう「いかり」とは船を停泊させる「碇・錨」であると共に「怒り」でもある。「怒り」と「錨・碇」は同義だからだ。つまり本来「いかり」とは、男を繋ぎとめて置く存在であり、物であり、感情なのだろう。

「怒り」とは、相手を意識するから怒るのであり、相手に興味が無ければ、怒りすら起きない。相手を意識するあまり、時には怒り、時には錨で繋ぎとめるものなのだろう。だから「いかり」が無ければ、勝手に男は、あちこちをさ迷い歩いて何処吹く風となる。つまり、糸の切れた凧みたいなもになる。

頭とは本来「天の霊」と書き記し「あまのたま」と呼び、それが「頭」となった。つまり「いかり」を持たない人間という存在は、その「天の霊」が降りてこない、所謂土人形みたいなものなのだろう。人間だからこそ、怒る。また女性だからこそ「錨・碇」と「怒り」を駆使して、男を繋ぎとめる存在になるのだと思う。

「怒りを沈める」「錨を沈める」もまた同義。碇であるカシオペアは、北極星である天帝を繋ぎとめるもの。つまり「いかり」とは、発するものであり、繋ぎとめるもの。怒りを沈めるとは、相手への愛を繋ぎとめるものだと考えてもいいのかもしれない。鎮めるほどの烈しい怒りは、ある意味愛情の表れかもしれないが、赤の他人に対する怒りは余程でない限り、逆に冷静な怒りであるのだろう。それは持続しない怒りであり、いつしか忘れ去るような相手への感情が基本に成り立っているからだからだ。

今回「宗像教授異考録」を読み直して、神功皇后こそが荒ぶる女神、もしくは荒ぶる女神を宿した存在であり、女性の代表的な存在だと思ってしまった。

ところで久々に、星空を眺めたくなった。一人で今夜、行って見よう。。。
[PR]
by stavgogin | 2009-06-28 09:28 | よもつ文

音トイウモノ。。。


幽霊などの「霊」という漢字の古体は「靈」という漢字で、
「雨」に「□」という器が三つ付いて「巫」という漢字が
組み合わさったもの。つまり本来、雨乞いに関するものか
ら発生したのがわかる。そして雨乞いとして雨という霊を
呼び出す為に、いろいろな事が考案されたのかもしれない。

「琴」という楽器がある。香椎宮で仲哀天皇が琴を奏で、
神功皇后に神が降りた話がある。「こと」は「琴」「事」
「宣」などと、本来は神の御告げの意味がある。縄文後期
に二弦のや四弦の琴が発掘されている事から、琴の歴史も
かなり古い。

そして「琴」は「koto」と言い表すのだが本来は「音」
「oto」から発生した言葉であった。「音」は人の注意
を引きつけるもので、それが神を呼ぶにもなったのだろう。

しかし、もっと古い楽器は縄文時代から延々と続いている
石笛だ。石笛は古神道で神霊を招き寄せるのに使用されて
いる呪具だ。そして石笛の音は、日本の音、メロディーの
原点となる音だ。

「息」とは「生き」でもあるので、人間の生命力が石笛に
「息吹」が吹き込まれ、神を呼ぶ。その音は、かなり甲高
い音となるのは、それが神霊を呼ぶ音として適しているの
かもしれない。

例えば、拍手を打つ場合、手の平に空間を作れば空気が
入り音はこもってしまう。本来の柏での打ち方は、その空間
を作らずにパンッ!という乾いた高い音を作る叩き方なの
だと。やはり神霊を呼び出すには、高い音となるのか…。


ところで、最も古い音を発するものとは、人間の「声」となる。
これを男女にわけてしまうと、男の声は野太い音。そして
女の声は、比較的高い音。

太いといえば、太鼓の音は太く重い。楽器の中で、太鼓の
歴史も古く、弥生時代の遺跡からは太鼓を打つ男の埴輪も
出土しているが、石笛よりは比較的新しい。

万葉集には、柿本人麻呂の長歌の挽歌があり、戦闘の描写
として、下記の歌がある…。


「斎ふる 鼓の音は 雷の 声と聞くまで 吹き鳴せる… 」

戦国時代における戦闘にも陣太鼓は使用された事から、な
んとなくだか、男性的な太い音というものは戦闘意識を鼓
舞するもので、逆に女性的な甲高い音は、神霊を呼ぶとい
う使い分けがあったのかもしれない。

例えば、夜の巷に「キャ~!」という女性の甲高い叫び声
が聞こえると何事だ!と人々は、その叫び声の女性の下へ
と集まってしまう。半分スケベ根性も入ってはいるが…。

しかし「ワァ~!」という男の野太い叫び声が夜の巷に響
くと、逆に何か争い事では?と警戒して避けてしまうよう
な気がするのだが。。。

つまり…なんとなくだが、音を考えてみると、卑弥呼から
始まった?と思われる巫女という存在は、その声という「音」
から、神を呼ぶのに適している為、その女性の声に近い高い
音を出す石笛が、今でも使われているのかもしれない。と
いうか、石笛の奏でる音とは、女性の声そのものなのかも。。。

アップした動画は、深夜の山奥で実験的に石笛の音を鳴らし
てみたのだが…全体の雰囲気が怪しくなるだけではなく、確
かに何かが寄って来たような気配を感じてしまった。是非と
も皆様…試しにやってみてくだされ(^^;
[PR]
by stavgogin | 2009-06-18 15:58 | よもつ文

波紋トイウモノ。。。

c0111772_1529314.jpg

「青森県弘前市で出土した、子宮部分に渦巻きがある土偶」
c0111772_1530380.jpg

「水底から撮影した水の波紋」

「アマ」という言葉がある。「アマ」は「天」という漢字もあてるが、
本来は「海」だ。「あま」を変換すると「海」という漢字が多く出る。

アマテラスとスサノオの誓約神話では、剣や玉を天真名井の水に浸し
て、神々が誕生しているというのは、水が生命の根源である事を示し
ているのだろう。

太陽信仰から日本ではアマテラスが中心となっているが、実は古代人
は、太陽は海から生まれ、海に死んでいるという事を知っていた。太
陽はありがたいものだが、本来その太陽を生み出す根源は海であった
事を知っていたのだろう。

青森県の弘前から出土した土偶は、女性の子宮に渦巻きの紋様が施さ
れている。何故、女性の子宮に渦巻きなのか?

「螺旋の神秘」を書き記したジル・パースは「全ての生命のもっとも
根源的な無形の母胎である水…渦の流れこそ、生命形成の根源形態で
ある。」と述べている。例えば、生命が存在する地球を内包する銀河
系もまた、星の渦で出来ている。渦巻きこそが、生命を生み出す根源
であると認識しているのは、現代でも同じであると思う。

世界的な感覚では、水が生命の根源であるというのは認識されている。
しかしもう一つ、水とは淀んでいてはいけない。それを伝えているの
は、日本で言えば「大祓祝詞」となる…。

「さくだなりに落ちたぎつ速川の瀬」

上記の表現が「大祓祝詞」に使用されているが「さくだなりに落ち」
とは昔の滝の表現で「たぎつ速川の瀬」というのは、水の渦を表現す
る言葉となる。

「万葉集」の歌に、こうある…。

「古ゆ人の言ひ来る老人の 変若といふ水そ 名に負う滝の瀬」

変若は若返る事を言うので、滝の瀬が変若水であり、その滝の瀬は
渦を巻いているから、生命の根源となる。また「大祓祝詞」には、
「持ちかか呑みてむ」とあるが「かか」は蛇の古語なので、蛇のよ
うに呑むと言う意味になる。

蛇は”とぐろを巻く”という渦巻きを作る存在。また脱皮により、
新しい命を作る存在でもある。古代は龍=蛇だった。だから滝も、
「水」と「竜」が組み合わさって出来てた漢字。つまり「さくだな
りに落ちたぎつ速川の瀬」とは滝壺であり、竜穴という意味となる。

子宮には、羊水を内包している。だから出産時に水と共に生まれて
くる赤ん坊に、水の生命を感じたのだと思う。だからこそ古代人は、
写真のように女性の子宮に渦巻きを施した。女性の子宮は生命の根
源であり、そこに竜穴を見たからなのだろう。

水の渦巻きも、水の波紋も同じなのだと思う。必ず中心があって、
その生命力を外に広げる為に、渦巻きも波紋も外に広がっていく。
c0111772_15305435.jpg

「遠野の鶴音山の経塚の上に置かれた環状列石みたいな石」

これが人間の原初の考えだと思う。となれば、ストーンサークルな
ども、一つの渦巻きを意識して作られたものでは無いだろうか?

火山などは、噴火口を中心に360度の広がりを見せて、火山岩を
吹き飛ばしている。これもまた水の渦巻きであり、波紋である。石
が星の堕ちたものであるならば、火山はその星である石を周囲に飛
散らす、畏怖される聖なる存在でもあったのだと思う。そのミニチ
ュアとして、命を生み出す存在としてストーンサークルもあるので
はないだろうか?

とにかく、竜穴であり火山の火口であり、物事の中心は何かを生み
出し波紋を広げる存在だ。ただしそれは、全て良い事ばかりでは無
い。騒動の中心も、喧嘩の中心も「飛び火」というやはり波紋効果
があって、周囲を巻き込んでしまう…。

家庭においても、一人機嫌が悪いだけで、家庭内の空気はピリピリ
して、その波及効果、波紋効果は計り知れない。。。

そう…物事の中心とイウモノは…良きにつけ、悪しきにつけ、いろ
いろ巻き込むのを想定しなければいけないのだろう…(^^;
[PR]
by stavgogin | 2009-06-17 15:34 | よもつ文

天狗トイウモノ。。。

たまたま前の記事で、崇徳上皇の話になってしまったが、
崇徳上皇は生きながら「天狗になる。」と言った人物だ。

そういや後白河法皇は、源頼朝に「日本第一の大天狗」
と言わしめた存在だった。

ところでだ…「鬼になる!」と言った天皇はいない筈だ。
「天狗(アマツキツネ)」と呼ばれたのが「天狗」でも
あるし、確かに天狗には「天」という字が「天皇」と被
っている。つまり天上界にいる存在が、天狗であり天皇
なのだろう。

ところが鬼はというと、例えば地獄にはうようよ鬼がい
る。どちらかというと、地下の住民みたいな存在だ。

日本神話的に分け隔ててしまえば、妖怪世界的に高天原
に住むのは天狗で、黄泉の国に住むのは鬼となる。だか
らなのか、天皇で「鬼になる!」と言った人物はいない
のだろう。

天皇が外道や妖怪、物の怪となったとしても、自らを地
に落とすというのはプライドが許さないのだろう。だか
ら「鬼」ではなくて「天狗」になると言うのだと思う。

まあ昔は、山で修行をしている山伏等を称して天狗と言
った場合もあるのは、山=天上界というイメーシもあっ
たのだろう。しかしその山=天上界で過ごしていた山伏
や坊さんが下界に降りて鬼になった話は「今昔物語」で
も紹介されているので、本当の意味では山伏も坊さんも
天狗にはなれないのだろう。

地上界?では、例えば極悪非道な人間を称して「鬼!」
と言ったり「鬼婆!」と言ったりするする。

「天狗になる」という言葉、もしくは「天狗の鼻をへし
折る」という言葉は、あくまで勘違いをして偉ぶってし
まった一般庶民への言葉であり、本当の意味では天狗に
なれないのがわかる。

この時点で思ってしまう…一般庶民は、いつまで経って
も「天狗」にはなれないのだと。結局、黄泉の国であり
地下の国を這いずり回る?鬼という物の怪の存在にしか
なれないのが自分達だ(^^;
[PR]
by stavgogin | 2009-06-16 07:14 | よもつ文

言葉トイウモノ。。。

上田秋成の「雨月物語(白峰)」で円位の歌に、変わらぬと思
われたものが変わってしまった…という歌が添えられている。


松山の浪のけしきはかはらじを

           かたなく君はなりまさりけり



そう世の中、変わらぬものは無いという事だろう。。。


そしてその後、下記↓の文が続く…。


「露いかばかり袂にふかかりけん。」
(夜霧と涙がどれほど袖を濡らしただろうか。 )



多分、この文の前に「猶心怠らず供養す。」とあるので、夜も
すがら心のこもった西行の読経の為か「露」という語に「夜霧」
と、円位の崇徳上皇に対する想いが「涙」という意味も含め合
わせて訳されたのだと思う。

しかし「ふかかりけん。」の訳を「濡らしただろうか。」と訳
するのは、超法的解釈になってしまう。

例えば、海を見て一言「深いよね。」となれば、普通は海は深
いもの。何を当然の事を言っているんだ?こいつは…となって
しまう。しかし、それ以外の「深いよね。」という意味を察す
る人は、どれだけいるのだろう?

また、真っ赤な夕焼けを見て「深いよね。」と言えば、傍にい
る人は、どういう解釈をしてしまうのだろう?真っ赤な夕焼け
であるから、その「赤色」の深みを意図して放った言葉なのか、
もしくは人生の黄昏を意図して「深いよね。」という解釈とな
ってしまうのか、凄く難しい。。。

ただ、言葉というものは、前後の文の流れから読み取るものと
教わっている。だから「白峰」における「ふかかりけん」とい
う言葉は、崇徳上皇の言い表せぬ想いが「袖」にかかり「ふか
かりけん」という語は「濡らした」となってしまうのだろう。

現代語に接している自分達は、このような複雑怪奇な言葉と、
なかなか遭遇する事が無い。だけれど、昔…とくに平安時代な
どは、このような言葉を駆使して、自分の想いを伝えていた。

自分の、小学・中学の頃はフォークソング全盛期だった。その
途中からロックなるものの勢力が拡大され、いつの間にかフォ
ークソングVSロックという、交わる事の無いだろう二つの文
化が、音楽を聴く連中を分け隔ててしまった。

フォークソングは簡単に言うと「僕は君が好きなんだけど、何
で君は気付いてくれないの?」という自己完結の、男の女々し
さを歌っているのに対し、ロックはストレートで「俺は、お前
が好きなんだぜ!ベイビー!」という、想いを相手にストレー
トにぶつけるようなもの。

どちらかというと、和歌の世界はフォークソングに近いのだが、
日本の文化が西洋化すると共に、そういう回りくどい言い方が
まどろっこしくなり、ハッキリわかるストレートな言い回しが
普及し始めてきている。

これは元々、西洋の言葉の語彙が少ない事から来ている。だか
ら複雑怪奇な日本語の言い回しが面倒と感じる人々は、だんた
んと言葉も西洋化してきたのかもしない。要は、簡潔でストレ
ートな言い回しの方が判り易いからだ。そして面倒だからと、
だんだんと略されていき、今では文字も象形文字に近い感覚に
陥ってきている。

まあそれが悪いというわけじゃないが、なんとなく日本の言葉
は、現代になって退化してきているのか?とさえ思えてしまう。
それも全ては「タイム・イズ・マネー」という言葉が普及し始
めてからだろう。そして自分も、その生活と文化に、ドップリ
浸かりつつあるのだが。。。
[PR]
by stavgogin | 2009-06-15 15:52 | よもつ文

現代音楽「天の香具山(まほろば)」


[PR]
by stavgogin | 2009-06-14 08:33

出現?


[PR]
by stavgogin | 2009-06-14 08:32

歌劇「ワルキューレ(嵐の序曲)」


[PR]
by stavgogin | 2009-06-14 08:23

チェロ「悲しきワルツ」


[PR]
by stavgogin | 2009-06-14 08:20

チェロ「山の魔王の宮殿にて」


[PR]
by stavgogin | 2009-06-14 08:20